『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』感想:虚淵玄の描く人を超える愛が素晴らしいという話

魔法少女まどか☆マギカ新編叛逆の物語は正に私が好きなウロブチだった。

私が虚淵作品で特に好きな以下の三作。

共通するものは、人間と、それをヤメた者との愛。乗り越えねばならぬ障害がどれほど大きく、それを乗り越えた先の成就がなんと美しいことか。その過程には数々の強い覚悟、心の強さが必要だ。強ければ強いほど、人を惹きつける。

アリストテレス『詩論』には「戯曲には悲劇と喜劇とがあるが、観客の心を揺さぶり印象に残る悲劇こそが至高」のようなことが述べられいる。だが、現在の需要は逆に大団円にあり、どうしても今一つ物足りない結末になりがち。
虚淵作品の肝はこの二律背反を、凄まじき衝撃を読者に与えるハッピーエンドという、いいとこ取りの結末を紡ぐ点にある。彼はバッドエンド作家と呼ばれることもあるが、上述の三作品全てで主人公とヒロインは愛で結びつき、実に幸福そうなハッピーエンドを迎える。ただ、そのために人間をヤメ、肉体を捨て、全人類を肉塊とする、読者の常識からは受け入れがたい衝撃的な選択を経る。それらが巧い事混ぜ合わさり、とても忘れられなそうな結末ができあがる。

魔法少女まどか☆マギカ、TVの時点では面白かったが特に好きでもなかった。まどかが人から概念となったのは良かった、人どころか存在することをヤメる覚悟が素晴らしい。だがそれでは不足するものがある。ほむらの愛が成っていないのだ。
ほむらは結局まどかの想いを尊重して引き下がる形になった。まどかが無情に死ぬことはなくなったので、まどかと共に過ごすことは叶わなくなったが、妥協したのだ。しかし、それで終わってしまって、諦めてしまってよいのか? 答えはノーだ。その「どうしようもないから」を打ち破ってでも愛を結実させる過程が見たいのだ。
新編でほむらの愛は存分に描かれていた。前半の展開、そして真実望んでいた邂逅の機会をも捨て殺される覚悟。自信の願いよりも大切なまどかの決意。素晴らしい。そこで死んで終わりでも、その後円環にお迎えされて終わりでも、満足はしただろう。だがその後の展開こそが正にこの映画の肝、私が最も見たかった「全てを超越する愛」だったのだ。最高に興奮する展開だった。
結局ほむらが何をしたのか、今更私が語るまでもないが、そこには確かに愛がある。例えまどかと敵対することがあっても、それは真に愛ゆえなのだ。概念という物質ですらないものを相手に、確かにその愛を成し遂げた。真にハッピーエンドであり、しかし視聴者の心はひどく掻き乱された。これこそが、私が求めていたウロブチなのだ。