コミュニティに属することによる周辺的な作品の楽しみ

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1 コミュニティへの所属からくる楽しさ

 コミュニティに所属すれば安心を得られ、
 阻害されれば不安を覚える。
 スリランカの悪魔祓いのエントリでそれを説明した。
 心の拠り所とは人々とのつながりであるのだ。
 何らかのコミュニティに所属するということは
 安心を得られるだけでなく
 楽しみを覚えることでもあり、
 それを求める人々は多い。

2 インターネットインフラの発達

 そのコミュニティ・コミニュケーション形態は
 インターネットインフラの発達により
 それ以前には考えられなかった形での多様化を見せている。
 チャット、匿名掲示板、SNStwitterなど、
 現実世界では不可能なものばかりであり、
 そうした「場」の概念が拡張されることにより
 人々の間の「つながり」といったものも
 多様化してきている。

3 作品自体の楽しさ、作品の話をする楽しさ

 昔のゲームは良かった、と思うのは
 若い時代にはゲームに関する話を
 今よりも長く多くしていたから、
 という説をここでは推すことにしたい。
 その作品自体から得る楽しさとは別にある、
 それについて話し合うなどの
 周辺的な楽しさも含めたのが
 個々人が感じる作品の楽しさなのではないか。

 これを掘り下げて考えた後に、
 それを用いてどう楽しさを得るのか、
 という手段を提案することとする。

3-1 インターネットの普及によるコミニュケーションの容易化

    インターネットの普及により、
    いつでもどこでも
    他人とのコミュニケーションを
    取ることが出来るようになった。
    それにより、作品の周辺的な楽しさが
    作品自体の楽しさを上回るケースが増大する。
    勿論ある程度のそれ自身の楽しさは必要であろう。
    しかし、周辺的な楽しみを重視する層も存在する。
    彼らにとって、作品が自体が
    面白かろうとつまらなかろうと、
    作品論を語る上での良い悪いなど問題ではなく、
    それらの差異によって、
    直接に何か違いが生じるわけではない。
    重要なのは、その作品を取り巻く環境であり、
    所属していて楽しく感じるコミュニティである。

    
    「なんでこの作品に人気があるのか分からない」
    という疑問への答えは、もしかしたら
    その人の知らないコミュニティに所属することが
    とても楽しく感じられるからなのかもしれない。

       3-1-1相対的な関係

       本質的な楽しみというのは

       そうは変わらないのに対して、

       コミュニティが大きくなるほど
       コミニュケーションが増え、
       その結果として生まれる
       周辺での楽しみは増える。
       それにより人が更に集まり、
       周辺での楽しみに関しては
       正のスパイラルが生じる。
       前者なくして後者はありえないだろうが、
       相対的な地位は低下するはずだ。

       また、後者のみで楽しみを得るということも
       ないとは言えないだろう。
       以下、3つの例を見ながら
       コミュニティに参加するということを考える。

         3-1-1-1 番組実況

          番組の実況をするのは楽しい。
          「そんなことをしていたら
           番組に集中出来ないだろう」
          その指摘はもっともである。
          勿論、実況をしながらでもキチンと
          内容を細かく把握できる人はいる。
          しかし、多少は見逃す部分が生じても、
          それを補って余りある程の
          魅力が番組実況にはある。
          実況をすることによって
          コミュニティに接続されるのだ。
          同じ番組を見ている人々がいるという
          安心感を得られ、盛り上がるところで
          一体となって盛り上がるということは
          現実における祭のような高揚感を生み出す。
          これは独りで観ていては決して得られないものであり、
          実況をする人が絶えない理由の一つである。
          
          これはコマンドー実況においてはより顕著なものである。
          コマンドー実況スレッドでは、コマンドーもしくは
          シュワルツェネッガー氏主演作のセリフパロディという、
          極めて狭い範囲でのコミュニティが形成されている。
          狭い分、彼らの一体感はより高められ、
          より高い安心感や楽しみを得ることもできる。
          
          このように、作品に触れるときに
          同一のことをすることで
          コミュニティやコミュニケーションを
          築くことによって
          その作品「を」楽しむ ことから、
          その作品「で」楽しむ ことへと
          人々の姿勢が変化し、
          より大きな楽しみを得ることができる。

         3-1-1-2 ニコニコ動画

          元々、2chの番組実況を
          実際に映像を用いながら行いたい、
          という当初の目的があったニコニコ動画
          動画上にコメントが流れる、
          という仕様が動画の概念に
          革命を起こしたと言っても過言ではない。
          そして一大ブームメントを引き起こした。
          これまでの論から言えば、
          コメントの可視化というものが
          コミュニティへの所属を意識させるので、
          そこに安心感が芽生え、楽しく感じるのである。
          また、ニコニコ動画がきっかけで
          アニメを見るようになった人というのは相当数存在する。
          彼らは動画上にコメントがあることに慣れている。
          つまり、コミュニティがそこに存在することは
          当然の事象となっているのだ。
          周知のように、つまらない動画でさえも
          コメントが付けば面白くなることはよくある。
          彼らにとって、作品自体の面白さと、
          コメントに代表されるコミュニケーションで
          得られる面白さというものは、
          そこまで区別することを意識しないものなのではないだろうか。
          つまり、彼らにとっては作品自体がそんなに面白くなくとも、
          それを取り巻くコミュニティでさえ面白ければ、
          それは作品自体が面白いのと同義なのである。

          そこに差を設ける必要性はない。
          極端な場合、作品をけなすような行為をする場合でも、
          それを肯定するコミュニティが形成されれば、
          そこに居心地の良さを感じる可能性はある。
          それが加熱しすぎた結果が、「悪ノリしすぎ」と
          周囲から判定を下される人々なのではないだろうか。

         3-1-1-3 3ヶ月ごとに嫁を替える

          という揶揄をしばしば耳にする。
          これも、より楽しみを得るためにコミュニティへ
          参加するための行動なのではないだろうか?
          
          わざわざ嫁にするという高度な宣言を行うことで
          コミュニティへ参加しているという
          実感を高めることが出来る。
          コミュニティへ参加しているという
          意識が高まればそれだけ安心感も生まれる。
          つまり、嫁宣言を行うことで
          コミュニティに参加する喜びを得ることができるのだ。

3-2 これを生活にどう活かすか

    以上を踏まえて、それらをどう生活に活かすか。
    
    作品の質を制御することは出来ないので、
    自らの好みに合致する作品が
    いつもあるわけではない。
    また、作品の周辺に形成される
    コミュニティに関しても、
    自らが居心地よく感じるようには
    必ずしも形成されていない。
    
    そこで考え出されるのは、
    作品に合うよう、
    コミュニティに喜んで参加できるように
    自らを変質させる
という方策である。
    幸福とは主観的なものなので、
    幸福を感じるように自らを
    調整すればよいのである。

       3-2-1こだわりを捨てる

       だからといって、
       簡単に自分の主義を変えることは
       そう簡単なことではない。
       しかし、もし可能になれば
       それ以前とはまた違った世界が
       開けてくることだろう。

         3-2-1-1 挫折

          強い自我の残る自己を変えるには、
          まず自らを否定することが必要かもしれない。
          自らを絶対肯定していたままでは
          変革を起こすことは出来ない。
          何度か挫折を味わい、
          「今のままの自分では駄目だ」
          などといった実感を得る
          必要があるのかもしれない。

         3-2-1-2 信じがたい事実

          自らの直感では全く理解できない
          事実を学ぶことによって、
          自らを疑う事を身に付けられるかもしれない。
          相対性理論におけるウラシマ効果
          量子論におけるコペンハーゲン解釈
          不完全性定理などなど。
          こういったものを学べば学ぶほど、
          自分を信じることができなくなっていくだろう。

4 蛇足 どうしてこう考えるに至ったか

 と書いてはきたものの、
 心理学を学んだわけでもないので
 内容には相当不安が残る。
 
 このエントリの発端は
 私が自分の或る経験の原因を考えた結果である。
 その経験とは、通常とは異なる方向から
 作品を好きになったと気付いた時のことだ。

4-1 ストライクウィッチーズ

    ファンの多いこの作品だが、
    私もこの作品は好きである。
    しかし、好きになったと
    気付いたタイミングがズレている。
    放送中はその他のアニメと同じく来ては過ぎていく
    大勢の中の一つという認識でしかなかった。
    しかし、よくいくサイトの複数において、
    放送終了後も登場キャラの絵が描かれていたり、
    それにリンクを貼る形で振り返ったり、
    2chでのネタがあったりと、
    話題が途絶えるというようなことは無かった。
    気が付けば相当な好意を抱き、
    楽しんでいることに気がついた。
    そのとき既に放送終了から2ヶ月ほど経っていた。
    
    多くの人が楽しんでいるのを見る内に
    「あてられてしまった」というのかもしれない。
    しかし、好きだという気持ちは主観的なものであり、
    最終的にそれを決めているのは自分だ。
    原因が何であれ、それを好きになったという
    現象に対して私は驚き、そしてこう考えた。
    
    これを意識的に用いれば、
    人生はもっと楽しくなるはずではなかろうか。

4-2 コマンドー

    また、コマンドーで受けた影響も大きい。
    twitter上で知った arigamin という好漢が
    コマンドーの大ファンなのだが、
    2007年にコマンドーが日テレで放送されるとき、
    とてもはしゃいでいたのだ。
    そこで多少興味は引かれたのだが、
    その時は試聴することが出来なかった。
    そして一年後、
    彼の管理するニュースサイト(である アリガミンネットワーク をよろしく!)を
    巡回していた私は
    またコマンドーをやると知った。
    彼の騒ぎ方は蒸気を逸している。
    なぜか2chの実況板では毎日のように
    コマンドーの実況がなされている、
    ということも知っていた私はこう判断した。
    
    そんなに楽しんでいる人が多いなら、
    私もファンになればこれからの人生を
    もっと楽しくやっていけるようになるのではないか?
    
    その結果、視聴前からファンになることを決定したのである。
    とりあえずコマンドーの人こと
nikutetu 氏をフォロー。
    彼の管理するサイト(である @nikutyせかんど もよろしく!)等を見て、
    やはりこれは楽しいはずだと確信を深める。
    
    そして放映後、現在はコマンドー実況せずには

    いられないほどの大ファンになった。

    そして放映日は2008年9月18日。
    私の住む地域でのストライクウィッチーズ
    最終回の日だった、というのも因縁深い。
    このように変則的にコマンドーを好きにならなければ
    ストライクウィッチーズに対する好意に
    気がつくことも無かったであろう。

4-3 楽しめるのが一番

    これら二つの作品から学んだことは大きく、
    その後はこうした事を意識的に行うことによって
    なかなか楽しく過ごせてきた。
    この文章がまだ見ぬ誰かの
    生活の一助にもなれば幸いである。